Microsoft Research Silicon Valley 最後の日を見て

8 月中旬より,インターンとしてマウンテンビューに位置する Microsoft Research Silicon Valley (MSR SVC) に滞在して研究をしていました.期間は 3 ヶ月の予定で,11 月中旬まで居る予定でした.しかし,Microsoft経営判断により MSR SVC の閉鎖が突然決定され,所属チームの方々を含む殆どの研究者は解雇となり,僕の滞在も突如終了になりました.

このショッキングな事件は,英語のみならず日本語のニュースサイトにも取り上げられています.

この異変を偶然にも内側から見た者として,その実態や思ったことについて書いておきたいと思います.ただし,私はあくまでここに 1 ヶ月間滞在していただけの学生に過ぎないことに気をつけていただければと思います.特に,なるべく区別するようにしますが,研究所・会社の考えと私個人の考え・憶測は異なっている可能性があります.

MSR SVC はどのような場所だったか

コンピュータ科学の研究に関わっている人であれば,Microsoft Research (MSR) の存在感の大きさを否定する人はまず居ないと思います.ここまで幅の広い分野のトップ学会にてコンスタントに論文が発表されるこんな研究部門を持つ企業は他にありません.最も大きな研究拠点は Microsoft 本社のある Redmond で,他にも世界中に研究拠点があります.

MSR SVC に集められていたのは,アルゴリズム機械学習の基礎理論,及び分散処理のチームでした.いつまで残っているか分からないこのメンバーリストを見ても分かる通り,研究者は 50 人強程度とそこまで多くありません.

しかし,MSR SVC は MSR の最高の研究拠点の 1 つであったと断言できます.その 1 つの測り方は,チューリング賞受賞者の数です.チューリング賞は「コンピュータ科学のノーベル賞」とも言われ,コンピュータ科学における最も権威のある賞とされています.日本人受賞者がまだ居ないことも有名ですね.MSR に所属するチューリング賞受賞者は 3 人ですが,そのうち 2 人が MSR SVC に所属していました.ちなみに,チューリング賞受賞者専用の駐車エリアなんていうものもありました.

彼らをはじめとして,これらの分野の著名な研究者が MSR SVC には集められていました.僕がお世話になっていたのは,SPA と呼ばれるチームです.交通ネットワークや複雑ネットワークなど現実のグラフに対する重要なアルゴリズム的な問題に,理論と実験の両方からアプローチしています.僕は前からこのグループの研究成果が本当に大好きでした.例えば,外部のセミナー等でグラフアルゴリズムの話をする時,ほぼ必ず彼らの成果を言及しているように思います.彼らの研究成果がどう凄いかを力説したいのは山々なのですが,長くなりそうなので,PFI セミナーの発表資料などを見ていただければと思います.

MSR SVC に実際滞在しての感想(解散前)

こんな場所が存在することが許されるのか,まるで天国のようだ,というのが最初の感想でした.研究所の環境も素晴らしいのですが,何よりびっくりしたのが,本当に研究だけをしていれば良いという点です.大抵の企業研究所は,半分程度の時間は会社の利益へ貢献することが求められていると思います.一方,MSR (SVC) ではそういった制約はありません.メンターのカレンダーを見せてもらいましたが,週 1 の全体ミーティング以外,本当に殆ど予定が入っていませんでした.

また,成果としての論文の数すら求められないということを聞きびっくりしました.メンターはヘッドの Roy Levin 氏から「出版数が半分になっても良いから,正しいことをやれ」と言われていたと聞きます.実際,インターンに行く前から,僕はここの人たちの書く論文が本当に好きでした.実際に一緒に研究してみても,所属チームの人たち彼らは「論文のための研究」という姿勢を決して取りたがらず,疑問をごまかさない誠実な態度に心打たれました.

実は僕は 2011 年にも北京の Microsoft Research Asia (MSRA) に 3 ヶ月間お世話になっています.MSRA も研究に集中できる素晴らしい環境でした.MSRA は,若いインターン生の数が非常に多いこともあってか,活気にあふれた環境です.一方,MSR SVC では,マウンテンビューという静かな街の影響とそういった理念の影響の,きっと両方のおかげで,とても落ち着いた空気が流れており,じっくりとした研究をするのにとても適した環境だと感じました.


(所属研究者の出身地が分かる世界地図です.世界中から研究者が集まっていたことが分かります.)

そして,閉鎖の通知を受ける当日

それは本当に唐突でした.9/18 (木) に研究所に行ってみると,いつもとは明らかに雰囲気が違いました.席につくと,隣の席のインターン生が理由を教えてくれました.「この研究所が閉鎖になるらしい」と聞いても,僕は最初はピンと来ず「別の拠点へ移動という意味か?僕らのインターンシップ期間中だろうか?」などと聞き返していましたが,事態は遥かに悪いものでした.殆どの研究者は解雇,しかも実行されるのは翌日 9/19 (金),ということでした.

その後メンターの Daniel も訪ねてきてくれ,色々と話をしました.フルタイムの方々にすら,通知があったのは本当に 9/18 (木) の朝だったそうです.ヘッドの Roy Levin 氏ですら事前に知らされていなかったそうです.今週からのインターン生だって居ました.アメリカの企業のやり方を痛感しました.

当日は,最初は皆電話やパソコン(恐らくメール)でとても忙しそうにしていました.午後になるとすぐに荷造り用のダンボールが積まれ,荷造りをすぐに開始する人も居ました.一方,冷蔵庫に入っていたワインを飲み始める人たちも居て,時間が経つにつれかなりの数の人がワイングラスを片手に集まっていました.

インターン生には午後 3 時にマネージャ(人事課?)から今後についての説明がありました.インターン生には (1) 他の MSR にてメンターを見つけインターンを継続するか (2) インターンを中断して帰るかという選択肢が与えられました.ただ,実際に他のメンターを見つけるのはかなり厳しいため,殆どのインターンが後者を選択するようです.インターン生は,一応来週からも MSR SVC の建物に入ることができます(殆ど誰も居ませんが).

一方,フルタイムの研究者は Microsoft のメールアドレスへのアクセスも翌週には本当に失います.そのため,今後の情報交換のための外部のアドレスでのメーリングリストを早急に立ち上げていました.そのメーリングリストには当日から別の機関の公募情報等が多く転送されていたようです.

なぜ閉鎖の判断を下されてしまったのか?

この「素晴らしい」研究所を閉鎖する判断を下すことは,とても容易だったと思います.この研究所は上記の通り基礎的な分野における素晴らしい研究をコンピュータ科学のコミュニティに貢献していました.しかし,その性質故,会社の直接的・短期的な利益への貢献はかなり低いと言わざるを得ません.経営の任を一時的に担った人間が,自分の短期的な「成果」のためにこの研究所の閉鎖を決定しようとするのは,仕方がないように思います.

逆に,なぜ十数年間も存続できたのか?この研究所の存在意義は何だったのか?

憶測も含みますが,Microsoft がこういった基礎的な研究にも投資を行っていたのは,コンピュータ業界をリードする企業としての自負の現れだったのだと思います.コンピュータ業界における製品・サービスには,元をたどっていけばコンピュータ科学の基礎研究の進歩によって実現できたと言える物が少なくないはずです.「コンピュータ業界で収益を得ているのに,目先の製品に繋がる研究にだけ投資をして,基礎理論の進歩には『タダ乗り』なのか?」Microsoft は,この質問に胸を張って回答できる数少ない企業の 1 つだったと思います.

10 年前までは,MSR のインターン生全員が Bill Gates の豪邸に集められるイベントがあったそうです.そこでは,本人から「未来のコンピュータ業界は君たちにかかっている」と激励の声をかけられたそうです.ここの研究者達は,この研究所を気に入っていただけでなく,このようにコンピュータ業界をリードしていく者としての誇りを持つ Microsoft の一員であることも気に入っていたように思いました.

勿論,会社の利益に全く直接結びついていなかったわけではありません.例えば,所属チームのグラフアルゴリズムは Bing Map, Bing Search にて活用されています.また,分散処理チームは最近だと Azure 関連でかなり貢献をしていたようです.また,身近なものだと,XboxKinect におけるプレイヤー認識を実現するための機械学習を分散処理で達成したのもここの分散処理チームです(論文).

感じること

悲しくて,悔しくてたまりません.楽しかった滞在が打ち切られ日本に帰らなければならない,などということはこの際本当に些細なことでしかありません.悲しいのは,大好きだったこの研究所が,そして特に,愛する最高の研究成果を残してきたこの最も尊敬するチームが,解散になってしまうということです.彼らのような最高のチームであれば,この天国のような研究所で研究に集中させておくだけの価値が十二分にあると,僕はそう思っていましたし,Microsoft という会社にもそう認識されているということが,彼らのような研究者を目指す僕の誇りでもあったと思います.勿論,彼らが素晴らしい研究者であることはコミュニティにてよく知られていますし,彼らが食いっぱぐれることはまずないとは思います.ただ,チームごと別の場所に移動しこれまでと同様に自由に研究を続けていく事ができるとは余り思えません.

とはいえ,ここの研究者たちは,なんやかんやこういう日がいつ来てもおかしくないという認識は持っていたのではないかと思います.上述の通り,この研究所を閉鎖したいと考える人間が出てくることは容易に想像がつくことです.実際,他にも過去に多くの企業研究所にて研究チームの解散は起こっています.彼らが遠からずまた安定して研究できる環境を手に入れ,素晴らしい研究成果を世に送り出してくれること(あとできれば僕とまた共同研究してくれること)を心待ちにしています.

研究は役に立つべきか,役に立たなくても良いか.研究は企業でされるべきか,アカデミアでされるべきか.こういった点は議論が尽きない話題です.自分の意見はまだ固まっていませんが,間違いなく自分の意見の形成に影響する事件だと思います.

そして,短い間でしたが,この研究所の一員として素晴らしい研究者の方々と一緒に過ごしたことを誇りに思います.